私は映画が好きです。
映画を観ることが好きです。
わたしは現在、地元の山口を離れて大学生をしています。
今住んでいるところは、地元よりも都会です。
地元には小学生くらいまでは小さな映画館があったものの、今はもうありません。
なので、映画を観ようと思ったら、隣の県まで行くか、DVDが発売されるのを待つしかないのです。
でも私は、映画館が好きで、映画館で映画を観たいです。
今住んでいるところは、ちょっと足を伸ばせば映画館がたくさんあります。
素晴らしい環境です。
大学生になってから、貪るように、ちょっと人に言えないペースで映画を観てきました。
ということで、映画を観たそのままの私の感想を記録したいなと思います。
めちゃくちゃネタバレあると思うので、これから観たいという方はお気をつけくださいね。
自分で書いた後に振り返ってみると、自分でも引くほどネタバレあるなと思ったので・・・なにとぞ・・・。
なんか違う……。私が勝手に思ってただけだけど、なんか違う……。
このお話は、チワワちゃんってあだ名の女の子がバラバラ遺体で見つかるんですけど、そうなるまで、チワワちゃんとよくつるんでた子たちは、チワワちゃんがいったい何者なのかとかもっと言えば本名すら知らなかったんですよね。で、主演の門脇麦ちゃんが、亡くなってしまったチワワちゃんについて知りたいということで、自分含め、よくチワワちゃんとつるんでた仲間に「いったい、チワワちゃんとは何者だったのか?」を聞いていくみたいなお話でした。
私は勝手に、チワワちゃんには誰もが驚きの過去があるとか、殺された理由はこうだとかいう、ミステリー的な要素を期待してたんですよ。これがあかんかったですね。
チワワちゃんが「なぜ殺されたのか」ということは、特にはっきり明かされなかったし、よくつるんでた仲間の誰に聞いても「それぞれにバラバラのチワワちゃん像」が返って来て、最後まで「チワワちゃん」という人間がわかることはなかった感じでした。
そして何といっても成田凌氏……。控えめに言ってクズでした(役柄が)。
チワワちゃんと付き合ってた彼氏役でした。
もう目に焼き付いて離れないのが、主演の門脇麦ちゃんを襲うシーン。
そういうことにまだまだ免疫のないぷしゅしゅには刺激強すぎでした……。
私、成田凌氏の役で好きなのは「人は見た目が100パーセント」の榊さんなんですよ。中盤までめっちゃ好きだった。性格もファッションもドンピシャで、私の敬愛する美玲さん(桐谷美玲さん)と付き合いだしてだんだんクズが露呈していくまで、めちゃくちゃ好きだった。大学の友達に共感されなくても、一人で「榊さんしんどい」って言ってた。
榊さんも最終的にはなかなかのクズでしたけど、今回はよりクズでした。
なんなんだろうね、成田凌氏はクズが似合うのか?クズが似合うって何?失礼じゃね?不名誉じゃね?
私、意外かもしれないですけど(?)、こういう感じの動物ドキュメンタリー、好きです。
去年は「アース アメイジング・デイ」観に行きましたし。
結論から言ってしまうと、私的にはアースのほうが好きでしたけど、これもこれで面白かったです(誰)。
アースは内容や構成が私好みだったこともあるけど、佐々木蔵之介氏のイケボがナレーションだったこともデカかったと思う。
ダーウィンが来た!の葵わかな氏のナレーションが悪かったということでは決してないけれども(ますます誰)。
この映画は、主に3つのパートに分かれていて、群れを追われた若きオスライオンが自分の群れ、縄張りをつくっていくパート、親を失い、更には片腕も失ってしまった赤ちゃんゴリラを、ゴリラの群れが優しく迎えてくれて一緒に暮らしていく過程を追ったパート、オスライオンがおらず、母ライオンとその子どもたちでなんとか厳しいサバンナを生き抜いていく過程を追ったパートという3部構成でした。
私は今何故か、自分の中でゴリラがアツいので(?)、ゴリラのパートが面白かったです。
ゴリラってかっこよくないですか?あの筋骨隆々な感じ。
私の肌感的に結構メジャーな動物というか、知名度のある動物だと思うんですけど、実はね(多分)絶滅危惧種だったりするんですよ、知ってました?(誰)
ゴリラの群れのリーダーのことを「シルバーバック」って言うんですけど、なんでシルバーバックって言うかって言うと、群れの長になると自然と背中の毛が白っぽいような銀っぽいような色に変化するそうです。これが一番好き。自然と毛の色が変化するってすごくね?自然の神秘(?)を感じますわ。
しかも、ゴリラは顔に似合わず?草食なのに、なぜあんなに筋骨隆々なのかというと、ゴリラの体内には特殊なアミノ酸?があり、草を食べてもそれが筋肉になるような体のつくりしてるそうです。
・・・なんで?別に私はゴリラになりたいとか思ってるわけじゃないけど、シンプルに不思議。ボディビルダーや筋肉が欲しい人は、きっとこのゴリラの体質をうらやましがるに違いない。
こういう動物ドキュメンタリーものを見ると、つくづく「世界は広いな」ということを実感するな。
いや、そもそも「世界は狭いな」とは思っていないけども、日頃生きていて接することのない動物たち、名前すら聞いたことのない動物たちを映画によって知ることで、この地球は人間が支配しているようで、もしかしたら実はそんなことはなくて、人間も数多の動物のうちの一種に過ぎないんだなぁとか思います(私の立場)。
動物ドキュメンタリーものは私の感覚的には、若い人があまりに好む感じではないと思うんですが、私みたいに?刺さる人にはとことん刺さるジャンルなんでしょうね、きっと。
もう観てから2か月以上経ってる今となっては(おい)、あんまり詳しく覚えてないんですけど、それでもなんとか覚えてることとしては、主役の気象学者ウィルとヒロインのケーシーが完全なる恋をにおわせないまでも、これから確実にイイ感じの関係になるだろうということを予感させて終わりました。台風対応一辺倒で終わらなかったのがよかった。私、そういうのスキ。
ウィルとその兄(名前忘れた)は、まだ幼いころに、めちゃくちゃ大きなハリケーンに襲われて、それによってお父さんを亡くしてるんですね。その経験から、特に弟のウィルは、お父さんを奪ったハリケーンをどうにかしたい、もう2度とハリケーンで亡くなる人が出ないようにしたいみたいな思いで、気象学者になります。
お兄ちゃんの仕事は何だったかな、実はめっちゃ凄腕なんだけど、普段はそれを隠して生きてるエンジニアだったかな?(おい)
その凄腕が、この映画の中では結構活躍したりするんですけどね(すべてがうろ覚え)。
この話の筋は、アメリカに史上最大、かつてないほどの大きさのハリケーンが来るってのに便乗して、めちゃめちゃ大金を強奪しようって考える、頭がいいんだか悪いんだかよくわかんない集団がいて、それをウィルたち兄弟と、お金が盗まれる施設の職員であるケーシーが力合わせてやっつけよう、痛い目見せようみたいな感じでした。
このね、強盗集団のボスがとことん悪役だったのも良かった。
最初はいい人だったような気がするんですけど(なんせ2ヶ月経ってるのであまり覚えていない)、そこから「実は悪者でした〜」っていう変わり身が早い&悪者っぷりが清々しいまでに悪者なのが、ある意味最高でした。
そんなボスは最後、ハリケーンからすんでのところで逃げられず、ハリケーンを利用するはずが最終的にはハリケーンにやられたという、こっちは思いっきり「ざまあみろ!!」って言える最後でした。
YouTubeで予告を観て、その下のコメント欄に「監督がロブ・コーエンというだけで安心」とか「安心安全のロブ・コーエン」とかいうコメントがたくさんあって、私、ロブ・コーエン監督のことを知らなかったんですけど、この映画を観て「なるほど、安心安全のロブ・コーエンやわ」と急激な信頼を寄せるようになりました。次回作も期待したい(変わり身の早さ)。
なんか、私の中で勝手にですけど、昨年公開の映画「ジオ・ストーム」の姉妹作感ある。
あれはめちゃめちゃ面白かった。期待してなかったぶん、余計におもしろかった。ストーリーのテンポが良くて、目が話せなかったし、飽きなかった。
観てない方はぜひ。きっと損はさせない(自信)。
正しいエンターテインメントを観ましたって感じでした。
なんだろう、木村拓哉×長澤まさみという布陣だけでも十分豪華なのに、そこにさらに豪華な俳優陣が出てくる。しかもその豪華俳優陣たちはそんなに扱いは大きくなく、誤解を恐れずに言えばモブ役みたいな扱いでもある。でも、確実に重要な役たち。
この映画は大々的に宣伝されてたから、きっと観てない方でもなんとなくのあらすじはご存知かなと思いますが、めっちゃざっくり言うと、都内で起きてる連続殺人事の次の犯行予告現場として、長澤まさみ氏が働いてるホテルが指名されたんですね。その事件を今度こそ未然に防ごうってことで、キムタク氏演じる刑事が、ホテルマンとして潜入捜査する。でも根っからの刑事だから、なかなかホテルマンとしてお客様に接することができなくて、教育係であり、ホテルマンとして誇りを持ってる長澤まさみ氏に目の敵にされるけど、お互いにともに時間を過ごしたりホテルで起こる事件解決したりするうちにお互いに「そんなに悪いやつじゃねぇな」みたいな気持ちになりだすという。
最終的には警察側とホテル側の双方の協力のもと、ホテルが犯行予告現場として指名された連続殺人事件をなんとか未然に防ぐことができ、刑事に戻ったキムタク氏とそのままホテルマンとして働き続ける長澤まさみ氏が、これからちょっといい感じになるのを予感させつつ終わりました。
今この感想書いてるのが3月末なんですけど(おい)、観終わってから2か月近くたった今で強烈に残ってるキャラクターが生瀬勝久氏と菜々緒氏。
この2人の役どころとか書くと長々となるので割愛しますが、この2人が結局はどんな目的でこのホテルに来ましたよっていうのがネタばらしされた時は、純粋にびっくりした。そういう理由で来たのかよ!?キムタク氏とそういうつながりかよ!?見事に話をかき回してくれたなって感じ。
あと、久々に松たか子氏の演技を観たけど、決して登場シーンが多かったわけじゃないのに、なんか存在感がすごかった。ここでネタバレしてしまえば、松たか子氏が犯人なんですけど、なぜこんな事件を起こしたのかの理由がまた切なく、この事件を成功させるために仕掛けたトリックがまた手が込んでました。長澤まさみ氏への恨みが原因だったんですけど、その手の込みようにシンプルに執念を感じました。
………あまり面白くなかった印象。
予告でリアルタイム型密室ゲーム!みたいなこと言われてて、こっちはそれなりに期待してたんですけど、私がリアルタイム型密室ゲームを未体験だからかなんなのか「これがリアルタイム型密室ゲームなのか………?」って感じがしました。
トリックはそれなりに手が込んでて面白かったと思うんですけど、私的にやっぱり「十二人の死にたい子どもたち」なわけだから、最後は死んでほしいわけですよ、いつもはバットエンドは嫌いだけど、これは「十二人の死にたい子どもたちが死んでこそ、正しい終わり方」だったと思うんですよね。
……最後は結局、誰も死なんて。思わず方言が出るほどにびっくり。嘘だろそんなの。そんなハッピーエンドはこっちは求めてなかった。
我が妹(19歳)も言ってました、「死んでこそなんぼやろ」って(なかなか日常生活で聞かない発言)。
映画のコマーシャルでも言われてた、十二人のはずが実は十三人いる、じゃあこれは誰だ?誰が殺したんだ?みたいなところで、実はその十三人目は死んでなくて寝てるだけでした〜!ってのが1番拍子抜けでした。
あれかな、今をときめく若手俳優が揃ってたってのに釣られたところあるかもな。新田真剣佑氏、橋本環奈氏、高杉真宙氏、杉咲花氏、我が北村匠海氏(我が)、吉川愛氏的な。
あれ、私、自分が感じてた以上にこの映画が面白くなかったのかな、こんなにボロクソ言うつもり無かったのにな。
もちろん、この作品に限らず、すべての映画においてたくさんの人が趣向を凝らして一生懸命作ったってのは十二分にわかってるつもりだし、私なんかが私なりの批評はできても、作る過程になったらまるでポンコツなんでしょうけどね。ぷしゅしゅに響かなかったというだけだな、きっと。
人類のキセキ・山P氏が美しかった。
それに尽きる。逆にそれ以外あんまりない。
私の勝手な想定では、ホワイトハッカーとよばれる主人公・ハオミンがめちゃめちゃすごいハッキングテクニックをもってて、それを惜しげもなくこの映画の中で詳細に見られるんだと思ってました。ハッキングテクニックを見せられたところできっと1つも理解できないだろうが、でもハッキングがこの映画の軸なだけあるから、そうだと思ってた。
・・・あまりハッキングテクニックは披露されなかった気が。ハッキング駆使しまくって悪事を成敗するってよりも、ハッキングはあくまでも手段であって、悪事を成敗するよ!って話だったように思います。
「ホワイトハッカーVSブラックハッカー」なんて銘打たれてるからさ、こっちはハッキングテクニックに次ぐハッキングテクニックを期待していた分、ちょっとがっかりというか、拍子抜けというか。でも、すべては人類のキセキ・山P氏の美しさで帳消しにできる(ちょろいジャニオタ)。
この映画に萌える要素は一つも期待していなかったが、その分、ハオミンのハッキングテクニックを使って自分たちのやりたいことをするためにハオミンに近づくというか、ハオミンを利用する立場の、ゼブラとその相方ス―・イーが恋仲だったことには地味に萌えました。ハッキングのシーンが意外と少なかった&素人目にはわかりにくかった分、こういうわかりやすく人の目を引くようなラブシーン(ラブシーンとまではいかないかもしれないが)がちょこちょこあったので、なんとか飽きずに最後まで観られたと思います。
山P氏はこの映画が中国映画ということで、中国語と英語を披露してたんですけど、私の想像よりもずっと発音が流暢でびっくりしました。
山P氏が英語に力を入れているというか、結構英語しゃべれるジャニーズってのは知ってたんですけど、ここまでとは思ってなかった。
しかも、母国語じゃない言語を流暢に話せるようになるだけでもきっと大変だろうに、それをあくまでも手段として、その上のもうひと段階としての演技をするってシンプルにめっちゃすごくないですか??山P氏、改めてすごいな。彼の魅力はやはり最初に、その美しいお顔が来ると思うが、もう少し踏み込んでみたらこんなインテリジェンスな一面もあるなんて・・・、あかん、彼の沼は深いかもしれない。
2018年2月公開の「空海ーKUKAIー美しき王妃の謎」以来に中国映画を観たと思うんですけど、それにしても中国映画は、配給会社がめちゃめちゃ多いな!?
映画が始まる前に、この映画に配給した会社が順番に紹介されるじゃないですか。私は普段は大して気にしていないんですけど、たいてい3つか4つくらいだと思うんですよね。
数えてはいないが、「サイバー・ミッション」においては20くらいはあったんじゃないかと思われますよ、いやほんとに。配給会社の紹介が長すぎて、そこでいらいらしましたからね。いや、お金が出してくれるとこがないと映画は作れないってのはわかるんですけど、それにしても出資元多くね?なに、これは中国映画においては普通のことなの??
最高だった。観てよかった。これは封切られたのは随分前で私自身1年半ぐらい気になってたんですが、観る機会を逃しまくりでのらりくらりとやってました。そんなところに大学近くのミニシアターで再上映をするってことで、飛んでいきました。
映画の内容が、津端修平さんという建築家、元大学教授の方とその奥さんの英子さんの日々を描くって感じだからか、年配のお客さんが多かったです。
このお二人のように自分で野菜も果物もできる限り作って(野菜70種、果物50種)、それだけでもすごいのに自家製ベーコン作ったり、お二人ともご高齢なのに(90歳と87歳)、餅つきしたりとかなんか私にとって憧れの老後の一つだなと思いました。
このお二人は愛知県春日井市の高蔵寺ニュータウンの中に300坪の土地を持って家を建てて庭で畑をしてっていうのをもう40年続けてらっしゃるんですよ。
そうした理由っていうのが修平さんが会社員時代にまさに高蔵寺ニュータウンの開発に携わってたことから来てて、そこであんまり自分の思うような、環境に配慮した開発計画ができなくてっていう後悔みたいなところから来てるんですよ。
それで、買った土地の裏山にどんぐりを植えて植樹したり、化学肥料を使わずに堆肥とかで畑を耕したりっていうので、お孫さん(大学生)はじめ、後世に「よい土地」を残したいっていう考えがあります。
他にも、英子さんがめちゃくちゃ修平さんを立てるタイプの奥さんで、修平さんの身の回りのことはほとんど全てやってあげるけど、でもそれが決して嫌なわけではないし、修平さんもそれにふんぞり返ってるわけではなく、むしろ英子さんのことを「僕にとって最高のガールフレンド(ニュアンス)」っておっしゃってて、私が将来誰かとそうなりたいかってのはまた別の話として、そんなのいいなぁって。年をとっても僕にとって最高のガールフレンドとか言われたい。そんな旦那を捕まえたい。
で、二人が作る野菜とか果物とか、英子さんが作るお料理とかがいちいち美味しそうなんですよね。栗とか柿とかじゃがいもとか、もう趣味の範疇超えて、農家としての仕事じゃんってくらい穫れるの、家庭菜園で。
英子さんが、絵本で出てくるような直径30センチはあろうかってくらいの焼きプリンとかガトーショコラとか作られるんですよ。私は一人で心の中で「うわぁ〜〜、美味しそう〜〜!!」って騒いでるんですけど、周りのお客さんは普通に「うわぁ〜〜」ってそのたびに小さな歓声あげてました。
丁寧に生きるってこういうことなのかなって一つのモデルを示してもらったような映画でした。久々に刺さるというか、面白いというか、観てよかったドキュメンタリー映画でした。
よかった。なんか正しい、王道の企業エンターテイメントを観た気がした。去年公開された、同じ原作者の池井戸潤さん、TOKIOの長瀬くん主演の「空飛ぶタイヤ」も観たんですが、ぶっちゃけこっちのほうが面白かった気がする。
でも、私、狂言師として野村萬斎氏については全く知らないけど、今回の映画は現代劇なのにやっぱりどことなく狂言師味を感じた……。喋り方とか笑い方とか。
最初から語りで終始ナレーター的な、物語の進行役を務めるミッチー(及川光博氏)が結局は悪者か?とか思ってたんですけど、ミッチーは最後までいい人だった。いい人過ぎてあれだったけど。
あと、私は詳しくなかったけど、ミッチーの相棒的なポジションだった松本あきさんが存在感あった。決して目立たないけど、物語が進む上で明らかに重要な役割だった。
最後の最後でこの映画はどういうカラクリというか、こういう話でしたよみたいなことがすべてわかるんですけど「こいつが黒幕か!」と思えば「え?あいつの上にはこいつがいたの?」とか「え?さらにこいつも?」みたいな複雑な人間関係というか権力争い、出世争いがあって、ベタな感じはありつつも面白かったです。
最後のエンドロールで、映画の出演者やその後どういう感じになりましたってのが知れたのもスッキリしました。自分で風呂敷広げて自分で畳んでくれた感じ。
ディズニーでした、ディズニーでしたね。
途中で実写とアニメが混ざるんですけど、それが違和感ないあたり、ディズニーだなって(語彙力)。
私としては観に行くモチベーションとしては、主役のメリー・ポピンズ(エミリー•ブラント氏)に金を払ったつもりだったんですけど、映画を観てみたらジョン、アナベル、ジョージ三兄弟がかわいすぎた。君たちのために金を払ったと言っても過言ではない。ジョンとアナベルが双子ってのも地味に推せる。
この映画はところどころミュージカルが出てきて、出演者が歌うんですけど、そこにはあまり魅力を感じなかった。歌自体が私にあまり刺さらなかったのかも……?同じミュージカルなら「ラ・ラ・ランド」のほうがまだ引き込まれた気が。
途中で歌も何もなく、ただ点灯夫のみんながダンスしてるだけってシーンがあったんですけど、あれはマジでよくわからなかった。「これはいったいなんのシーンですか?」みたいな。
実は七つの会議とメリー・ポピンズ リターンズを同じ日に観たんですけど(七つの会議→メリー・ポピンズ リターンズ)、七つの会議では最後まで結局、一番の権力者は自分の保身はしっかりしてて、顧客のことはあんまり考えてないって感じだったんですけど、メリー・ポピンズ リターンズでは銀行のお偉いさんが最後で急に出てきて、急に顧客思いなところ見せてくれて助けてくれました。同じ日に観た作品での落差がひどい。
最後のシーンはパパが無事に銀行のローンを返せて家も取られずに済んで、家族みんなで春祭りに行くシーンだったんですけど、あのシーン、めっちゃかわいかった。みんなが来てる服も、春祭りの会場も何もかも、カラーリングが「春!」って感じで多分映画の中で一番萌えたシーン。
父と観に行きました。
私、こういうのは父と観に行きたいんですよ。これまでも「キングコング 髑髏島の巨神」とか「エイリアン:コヴェナント」とかも父と観に行きました。
なんだろ、これは完全に私の主観ですけど、感動とかときめきを得るような映画ではなく、スカッとするとかスリルを味わうことが第一にありそうな映画は、父と観に行きたいんですわ。
仕事がめちゃくちゃ忙しい父と、大学生で地味にいろいろ忙しい私が、私の方から誘って(ここ重要、父の方から誘ってくれることはほぼ無い)、なんとか予定を合わせて出かけるという、一種のデートというか親孝行的なものでもありますね。
(父がお金を持ってくれるのがありがたいという面もおおいにありますけども・・・。大きな声では言えないですけども・・・。きっと父も喜んでくれてるはず、そう信じたい)
なんか展開がいろいろ急でした。
最初は主人公のアーサー(半海底人、ママが海底国のアトランティスの女王・アトランナ、パパが人間で灯台守)と、その異父弟のオーム(アトランナが海底国に連れ戻された後に政略結婚して生まれた、純粋な海底人)の間での、海底国・アトランティスの次の王の座を争っての熾烈な攻防があるわけですよ。
アーサーとしては最初は、海底国と自分は無関係だからって言って関わろうとはしないんですけど、自分はアトランナの長男で正式な王位継承者だし、オームが海底国の支配を広げようと地上へ攻め込もうとしてるのを知って、これをどうにかするという名目で海底国に行くわけです。
そして、テンプレぐらいテンプレみたいな、王座を争っての決闘をするわけです。
そして、オームとの戦いにアーサーが負けそうになると、オームの許嫁で、実はオームのやり方に不満を持っていたメラがアーサーの味方として、すんでのところで助け出します。
ここまではいい。話の流れ的に自然だし、うなずける。
ここで、メラとアーサー、なぜかサハラ砂漠に行きます。
???
なんだっけ、細かいストーリーは忘れちゃったけども、びっくりした。
そりゃね、半海底人で人間の血を半分ひいてるアーサーは地上で呼吸できるし、王族であるメラも、海底人でありながらも地上でも呼吸できるって設定だけど、急に海底からサハラ砂漠行くんだっていう。真逆だね?って。
真逆を狙ったのかもしれないけど、急すぎてちょっとびっくりした。
そして、サハラ砂漠で用が済んだら、そのあとはイタリアのシチリアに行きます。
ここも急。
詳しく説明すると長くなるんで割愛しますけど、ここらへんですごい、「トゥーム・レイダー」とか「インディ・ジョーンズ」を感じました。世界各地を駆け巡るアトラクション感のあるサバイバルがすごい。
主役のアーサーを演じたジェイソン・モモアがめちゃくちゃかっこいい。もっと端的に言うと、イイ体をしていた(素直)。
マッチョという言葉では表せないくらい、無人島に行っても、ジェイソン・モモアがいれば何とかなりそうだなという根拠のない安心感を覚えました。
無人島に連れていきたいアイドル第1位のTOKIOを1人で兼ね備えてるのかな??
普段私は、テレビの中とかリアルとか問わず、基本的にロン毛の男性はあまり好きではないんですが、このロン毛のジェイソン・モモア(=アーサー)は推せる。アーサーという役のせいかもしれないけど、このロン毛は好きだった。あのマッチョという言葉では言い表せない体で、しかもロン毛だったから、うまいことマッチョが目立ち過ぎなかったのかも。いや、それにしてもイイ体をしていた。
トレンチとかいう、海底人の一種で、ミイラのような、前述の「エイリアン:コヴェナント」のようなモンスター的な見た目のやつが出てくるんですけど、怖すぎてびっくりした。
それまで出てきた海底人が、いろいろ種類はあれど、どれも人間、もしくは人間に近い形をしてたからあんまり違和感を感じなかったけど、もともと地上にあったアトランティスが海底に沈んでから、海底人がそれぞれ独自に進化したって言っても、これは独自に進化しすぎってぐらい、人間の面影を残してなかった。
出てくる感じも、急に出てくるからめっちゃびっくりする。驚かすなよ。
最初にトレンチが出てきたときに、私がびっくりしすぎて「ビクゥッ!!!」って思わず体が動いたから、横にいた父も、そんな私にびっくりしたことでしょう。父さん、ごめん・・・。
あと、冒頭の冒頭で、アーサーが超人的な力を使って、海賊に乗っ取られた潜水艦を救うんですけど、そこで父子海賊のうち、父のほうだけ死んでしまって、子の方は父の犠牲によって生き残り、父を殺された復讐として、いつかアクアマン=アーサーを殺すっていうのを目標にする人がいます。
オームは、そういう、アーサーに対して、自分と同じく敵対心をもつ地上人がいることを知り、自分の、アーサーぶちのめし計画に利用しようとします。そこで、アトランティスで開発した、めっちゃ最新のボディスーツみたいなのをあげます。
で、そいつはそれを着てアーサーに対して喧嘩を吹っ掛ける(ここで構ってる暇はないので、もちろんぼこぼこにやられる)んですが、そのボディスーツを着た感じが、完全に初期の仮面ライダー。
↑触角がなくて、もっと目の赤い部分が大きい感じ。
え?このスーツは初期の仮面ライダーにインスピレーションを受けまくったのかな??ってくらい、初期の仮面ライダー。
初期の仮面ライダーを知ってる世代ではもちろんないけども、そんな私でも、心の中での第一声がこれでした。これはぜひ、この映画を観た人全員にアンケートをとりたい。
かなりの確率で賛同が得られると思う。
これも本来の公開期間には見逃したので、ミニシアターで観てきました。
いい映画でした。テーマがテーマだけに眠くなっちゃうかなとか思ったよりも面白くなかったらどうしようと思ってましたが、杞憂でした。
デリケートなテーマだったけど、テンポが良くてすんなり観れたし、でも考えさせられもしました。
設定としては、まず主人公のラモーナ(=レイ)は、ラモーナという女の子として生まれたんですけど、4歳くらいから自分は男の子として生きていきたいと思うようになります。心と体の性が一致しないという、トランスジェンダーですね。
そしてだんだんその思いが抑えきれなくなってきて、より男性に近づくために、男性ホルモンを体に注射する治療というかなんというかをしようとします。
そのことはママも知ってて、そんなラモーナ(男の子名はレイ)のことをできる限り理解したいと思ってるし、レイがそうしたいならということで、男性ホルモン治療の同意書の保護者欄に署名しようとします(レイは16歳で成年ではないので、保護者の同意がいる)。しようとします。
ここが日本ではあまりないかなと思ったんですが、この治療をするためには、父親と母親の双方の同意がいるんですね。日本では何かの書類で親の同意がいるってときも、双方じゃなかったりするから、ちょっとびっくりした。それとも、こういう性転換みたいななかなか大きい決断の時には、日本でも未成年なら、両親双方の同意がいるのかしら。
で、ここが問題です。レイには赤ちゃんの頃からパパがいません。出生届にはパパである人物の名前がありますが、会ったこともない。でも、治療をするにはパパの同意がいる。もうこうなったらパパのもとを訪ねて、同意書にサインしてもらうしかない。
あっさりパパは見つかるんですけど、娘として認識していたラモーナが、レイという男の子になりたがっているということを理解できない、受け入れられない。だから考える時間をくれみたいな感じでサインを拒否します。
私はここまで、あっさり「レイ」を受け入れていたママのおかげで、レイのことを「あー。そーなんだー。そういう人もいるよなー。」くらいに受け止めていたんですけど、ここでようやく「あ、そうか。一般的にはパパの反応が普通か。」と思いいたりました。
ここで、別れたカップルとはいえど、パパに新しい家族があったからといえど、会いに行ったママとパパがめちゃくちゃケンカするんですよ。確かに、別れたぐらいだから嫌い同士なんだろうけど、そんなに激高する??みたいな。
で、なんでママとパパがそんなに激高しあったかっていうと、ママとパパがまだ付き合ってた時代の頃、ママがパパの弟に手を出しちゃったんですね。それがパパにばれちゃったと。そしてできた子ども(=レイ)はどっちの子かわからないと。
そりゃ、あんなに激高しますわ。私はここまでママが、娘を息子にしてあげるために奔走する、いい母親みたいに見えてたので、急なママの過去の過ちにびっくり。別れた理由はてっきりパパかと思ってたから、別れた原因は実はママかよっていうね。
最終的には、パパが「レイのために向き合いたい、理解したい」と言ってくれて、同意書にサインしてくれ、レイは治療を受けられることになります。さらに、レイは、これまで知らなかったパパのこと、パパの弟のこと、パパの新しい家族のことも知りたいって言って、最後のシーンで、みんなで日本食レストランで食事します。
こんなに丸く収まるかと思わなかった。よかったね、レイ。
私、この映画で欠かせない存在だったと思うのが、レイのおばあちゃんカップルです。おばあちゃんは同性愛者で、女性のパートナーがいます。1度は同性愛者のフリをして、レイのママを産んだんですが、やっぱり自分は同性愛者だ、みたいな。
で、おばあちゃんは、最初は孫娘が孫息子になろうとしてることを受け入れられず、「どうしてそんなことをする必要があるのか?」みたいな感じです。
で、自分がそういう立場だからか、ママはレイのことを理解して、望むようにしてあげたいと思いつつも、本当は、そうしていいのか、いつかレイが「男になったことは失敗だった」と言ってくるとしたら、この決断をしていいのかという感じに、本当は揺れていて、踏ん切りがついていないことが見えているんですね。
途中で、ママがパパとケンカして同意のサインをもらえずに帰ってきたとき、おばあちゃんがママに向かって「あんたは本当はサインされなくてよかったと思ってる。サインされたら本当に追い詰められるから。(ニュアンス)」ってな発言をしてて、私はそこで初めて、ママが全面的に賛成ではないことに気づきました。遅。
最終的にはおばあちゃんもレイが男の子になることに賛成してくれたんですが、そこで言ったセリフが染みました。
「私のかわいい孫娘が孫息子になろうと、あんたという人間が変わるわけじゃないし、私は変わらずあんたを愛してる。(ニュアンス)」
私は自分で自分は、同性愛とか性的マイノリティーに関しては理解があるというか、偏見がないほうだと思ってるんですが、このセリフを聴いて本当にそうかなと思いました。
もし、将来の自分の子どもが、レイみたいに心と体の性が一致しないみたいな性的マイノリティーだったときに、その子を男とか女とかではなく、1人の人間として見られるのかな。やっぱり「子ども」ではなく、「娘」「息子」としてみちゃうんじゃないかな。
まあ、その辺のことはそうなってみないとわからないことがたくさんあると思うんですけど、人間って何なのか、性別って何なのか、家族って何なのかってことをこの映画の最中、何度も考えました。
おばあちゃんの彼女は、私的には特にハイライトはなかった感じなんですけど、でも確実に必要な役でした。ママにとって、タイプの違うお母さんが2人いる感じ。
これ、1回映画館で観たんですけど、その時ちょっとしたハプニングがあり、さらに私がこの映画をうまく咀嚼しきれずっていう経験があったので、ミニシアターでやるってんで、リベンジしに行きました。
まず、映画館で起きたハプニングってのがですね、私、洋画を観るときは、選択できれば字幕がいいんですよ。「字幕じゃなきゃ観ない!」までのこだわりはないけど、できれば字幕がいい。
で、私がこの映画を映画館で観た時間も遅かったのもあれですけど、字幕の回のチケットを買ってその時間にスクリーンに入ったのに、いざ映画が始まってみれば吹替版が始まったんですよ。
私はそこまでのこだわりはないし「もう始まっちゃったんだからこれでいっか〜」って感じだったんですけど、やっぱり字幕にこだわりたい方はいるんでしょうね。まぁそれが当然か。そういう条件でお金払ってんだもんね。
それで同じ回にいた観客のどなたかが映画館側に言いに行って、映画館の人が謝りに来て、字幕版を最初から流すという。
中には払い戻してる人もいました。夜遅い回だったから、ちょっとでも終わる時間が遅くなったら帰れないって人もいたんでしょうね。
私は映画を夜遅い時間で観る時は(当たり前だけど)公共交通機関で帰れるような時間を考えます。この時間の映画を観て、すぐ映画館出たらぎり終電に間に合うなとか、この時間の映画観ちゃうと、ぎり帰れないな~、よしリスケや!みたいな。
で、私はこの映画を映画館で観る時も、最初から字幕で始まってくれてたら、余裕で終電に間に合って帰れる感じだったんですけど、一回吹き替え版で途中まで観て、そこから字幕版で最初から観るというタイムロスがあったので、その時点で私の関心は
「君の名前で僕を呼んで」<「終電間に合うかな・・・」ってわけです。
なので、吹き替え版で観てた時よりも、字幕版が始まってからのほうの私は、明らかに映画に集中しきれていない。
私は映画を観る時はエンドロールまできっちり観終わる派なんですけど、もうこの時ばかりはそんなこと言ってられなかった。めちゃくちゃ後ろ髪惹かれながら、最後のほうのシーンを若干観終わらずにスクリーンを出ました。こんなこと、後にも先にも今のところこれだけだ。悔しい。
ってことがあったってのが自分の中でデカくて、でも私は映画は映画館で観るから価値があるんであって、きっと自分でレンタルはしないだろうなと思ったんで、ちょっくらミニシアターで観てきました。
結論。今回も内容をうまく咀嚼できませんでした(結局)。
1983年の夏の北イタリアを舞台に、主人公エリオとオリヴァーのひと夏の恋を描いたお話です。あ、エリオもオリヴァーも男性です。ここ大事。
エリオは17歳で、パパが考古学?の教授なんですね。
ここで早速エリオに物申したいのが、これは日本人の感覚でしゃべっちゃうけど、エリオは17歳のわりに学校に行ってるそぶりもないし、映画の大半を占める夏の間、読書したり、自宅のプール?で泳いだり、エリオはピアノが好きなんで、クラシックを自分で編曲してみたりっていう風に、私からしたら遊んでしかないわけです。いや、いいけどね。うらやましいだけだから。ひがみだから。それとも外国の17歳はそんなもんなのか??
で、エリオのパパのもとに、恐らく大学院生で博士号を取得したいっていうオリヴァー(24歳くらい)が来て、この夏の間の6週間、ともに生活しながら学ぶことになります。
まぁ、遊んでたシーンのほうが目立つけどね・・・、勉強もしてたけど、バレーボールしたり夜遊びしたりってのほうが目立ったけどね・・・、いいの、これは私のひがみだから・・・。
で、私にはよくわからなかったですけど、エリオとオリヴァーはともに生活するうえでお互いにひかれあって、まぁ、そういう関係になります。
そういう関係になる前に、エリオがオリヴァーに対する性的関心が抑えきれていないのは分かってたんですけど、まさかオリヴァーが、エリオがオリヴァーを意識し始めるよりも前にエリオのことを意識してたなんて思わなかった。
私、これ1回すでに観てるはずなのに。まったく気づかなかった。
もう、そういう関係になってからのエリオがかわいい。オリヴァーのほうが年上だからか、めちゃくちゃ甘えるんですよ。「オリヴァーがかまってくれない(*_*)」とか「オリヴァー・・・、好き・・・」みたいな。いや、もっと高尚な感じですけどね。こんなにカジュアルな感じではないです。
で、オリヴァーもオリヴァーで、そんなエリオのことがかわいくてたまらない感じなんですよ。「オリヴァーがかまってくれない(*_*)」なエリオに対して、軽くいなしながらもちゃんと応えてあげる。「オリヴァー・・・、好き・・・」なエリオに対して、「そんなに俺のこと好きなのかよ笑、ほんとかわいいな」みたいな。
でも、この恋は最初から期限付きの恋なんですよね・・・。この時点ですでにフラグ立ってる・・・。
だってオリヴァーはエリオのパパのもとに6週間勉強しに来たって名目で来たんだし。6週間の勉強が終われば、オリヴァーはアメリカ人なので、きっとアメリカに帰るわけです。(エリオはイギリスとかフランスとかいろいろな血が混ざってるけど、恐らく国籍的にはイタリア人?)
別れる時の2人がもう切ない・・・。
駅で2人は別れるんですけど、オリヴァーは電車に乗ってもエリオのほうを見ないの。そういうキャラじゃないのか、見ちゃったら別れがよりつらくなるからなのか。
その後のオリヴァーのことはよくわからないんですけど、エリオはもうつらすぎるわけです。オリヴァーを見送った駅から1人で帰れない。ママに迎えに来てもらう。
ちなみにエリオのパパとママは、はっきりとは言わないものの、エリオとオリヴァーの関係には気づいていて、そのうえで温かく見守ってる感じでした。息子がすごく愛せる人に出会えてよかったなって感じ。なんなら相談にも乗るよ的なことも言ってくれた。このパパとママの態度がすごくありがたかったですね。オリヴァーによれば、オリヴァーのパパなら、オリヴァーは即、矯正施設行きだそうです。
よく考えたら、エリオのパパとママ、めっちゃ心広くね?同性愛に寛容だから心広いとかではなくて、自分の息子とその恋人が、自分も暮らす家で夜な夜ないたしてるわけですよ?しかも自分はそれに気づいてる。なのに「思う存分やりなさい」みたいな。え、心広すぎじゃね?
最終的には、オリヴァーは2年間なんとなく関係が続いてた女性と婚約します。
・・・は?お前・・・は?こっちは完全なる遊びかよ!!まさにひと夏のアバンチュールじゃねえか!!って私なら文句言う。
夏にオリヴァーが帰ってから、冬になるまで(おそらく)連絡がなかったっぽくて、エリオは地味に寂しかったわけです。そこに久しぶりにオリヴァーから電話が来たかと思えば、「俺、婚約するんだ」つって。は?
エリオはちょっと責めながらも、最後は引き下がった感じになりました。「そうなるよね。」みたいな。そんなエリオを見て、パパとママは何も言わないけどめっちゃ心配みたいな。
最後のシーンは、その電話の直後、エリオが暖炉の火を見つめながら1人静かに涙するっていうので終わるんですけど、すごく苦しそうでした。
あんなに好きだったのに、帰ったとたん連絡が途切れた彼。
久しぶりに連絡が来たかと思えば、こんなにあっさり恋が終わるんだみたいな。
この映画にはそういうシーン、まあはっきり言ってしまえばいやらしいシーンと言われるシーンがたくさんあったんですが、全然いやらしく感じなかった。
エリオが、地元の彼女候補くらいの女の子と昼間にいたして、その日の真夜中にオリヴァーと初めていたしちゃうっていうのはさすがに節操ないなって思ったけど、そこは外国人マジックなのか、色彩の美しさ、背景となる風景の美しさなのか、いやらしく感じなかったです。
特に、食事のシーンは毎回きれいだった。毎回庭で食事とるんですけど、朝は太陽がさんさんと降り注ぐ中でフルーツとか食べちゃってるし、背景にはママが庭で育ててるたくさんの果樹の木があるし、地面は芝生?だし。絵本かと思った。
この映画に「わかる!」とか「共感!」とかを求めてはいけないのか?たかだか人生20年そこらのぷしゅしゅに、そう簡単に咀嚼できるものではないよって?じゃあ、いつかわかる日が来るの?え?
このシーンはしゃべりで魅せる、演じるよりも、無言で表情とか動きで魅せる、演じるシーンが多かったような気がするんです。だからなのか、気を抜くとすぐ置いていかれそうになった。しゃべらないということは、こっちが察しなきゃいけないじゃないですか、今はどういうシーンだとか。それにうまくついていけなかった感が若干あるから、咀嚼できなかったって思うのかも。
この映画の登場人物、大半が服装、露出しすぎなんですね、日本人の感覚からすると。夏ってのもあるかもだけど。
良かったのは、エリオとオリヴァーのハーフパンツ率の高さ。ハーフパンツって、体格のいい男の人やおしゃれな人が着ると、めちゃくちゃおしゃれじゃないですか?特にオリヴァーは体格がめちゃくちゃよかったので、ハーフパンツをはくことで足の長さが逆に強調されて、ごちそうさまですって感じでした。
あと、ここは曖昧なんですが、エリオがイタリア人?でオリヴァーがアメリカ人だからか、言語が英語とフランス語なのかイタリア語なのかみたいなので、1つの言語ではなかったような気がしました。こっちは字幕で観てるから、どんな言語であろうと関係ないっちゃないし、どの言語でしゃべられてても大してわかんないんですけどね。なんか観ててずっと「どうなのかな?」って思ってました。
この映画、なんかのテレビ番組で紹介されて知って、気になってたんですけど、私の住んでいる地域ではやっておらず、諦めようかと思っていた矢先、2月の終わりに東京旅行していたところ、 ぽっかり空いた時間で観ることができました。
新宿武蔵館というところで観たんですが、映画館のスタイルからして、もうカルチャーショック受けました。
今までチェーン?の映画館しかほとんど行ったことがなく、それが当たり前だと思っていましたが、さすが東京。映画館の種類まで豊富とは。
まず、上映開始前にスクリーンがカーテンで覆われていた。まずもってこれまでに観たことがない上映前のスタイル。
そして時間になったら勝手に暗くなって映画スタートとかじゃなくて、アナウンスみたいなのがありました。上映開始時間になったら、学校のチャイムみたいなのが鳴ったのはマジでびびった。一瞬、ここはどこかと。
映画自体はなんだろ、ここで長々とあらすじや私の思いを書くのをはばかられるような内容でした。
ざっくりあらすじを話すと、第2次世界大戦の終盤も終盤の1945年4月のドイツ。へロルトという若者(最初の設定がよくわからんかったが、敗戦濃厚な戦況の厳しさのあまりに脱走した脱走兵かな?)が、道でおそらく事故ったと思われるナチスの車の中から、身分が上の人が着る制服(今回は大尉の制服)を発見して、最初は寒さを防ぐために着たんですよ。
で、身分が上の人しか着れない制服を着れたうれしさに、ちょっと1人で大尉ごっこみたいなことしてたら、そこに大尉よりは身分が下の、上等兵が1人来ちゃって(へロルト自身よりは身分が上?)、大尉の制服を着たへロルトをガチで大尉だと思うわけです。そりゃそうだわ。
それはへロルトにとっては、予期せぬ出来事だったわけですが、それに乗っかって、「へロルト大尉」になるわけです。
で、別の部署で本物の大尉の地位に当たる人に遭遇するたびに、「お前はどこの部署で何をしてるのか」とか聞かれるですけど、それにはすべて「総統(=ヒトラー)直々の命令で任務をしてる」という口から出まかせで、その場を押し通すわけです。
本物の大尉たちも、総統直々の命令で働いている人を無下に扱うわけにはいかないから、そこまで深く突っ込まないわけです。
で、ここからちょっと複雑ななんやかんやがあって、まぁ、そこははしょるとして、めちゃくちゃ調子にのります。もう、わかりやすい。ここまでくると清々しい。
「総統の命令」とか「総統は喜んでおられる」とかを、まるで水戸黄門の印籠のように振りかざして、ナチス軍の兵士を身分関係なく、その圧倒的な「借り物の」権威で従えていくわけです。
ついには、脱走したり犯罪を犯したりしたけど、同じドイツ人であり、ナチス党員でもある人々を90人も大量殺戮します。そのやり方もまた雑。
穴を掘らせて、そこに殺戮した死体を入れていくのかなと思いきや、その中に直接生きている人間をたくさん入れ、そこで銃殺していく。ひとりひとりとかじゃない。ほんとに適当。効率を重視しているというのがめちゃくちゃ伝わってくる。
で、最終的にはこの一連のことが、ガチのナチスにバレ、犯罪を犯した人間とはいえ、処分が決まる前に勝手に殺したとして、一瞬、有罪判決が下りそうになるんですよ。
そこでまさかの、ナチスの中から「まぁまぁ、たしかにヘロルトのしたことは良くないけど、最近の兵士にはないその度胸、俺は買うぜ」的なことを言い出す、信じられないやつがヘロルトをかばい、ヘロルトは実質無罪みたいな形になるってんで、映画は終わりました。
恐ろしいことにこのお話は、史実をもとにしているそうで、ヘロルトのモデルとなった人物は終戦後に、戦犯的な扱いを受けて、結局は死刑に処されたそうです。
しかも、そのときの年齢が21歳……!今の私と同い年やないか……!
決してほめられたことではないけど、たしかに私にはヘロルトのような度胸はない(ヘロルトが度胸ありすぎ)。
実はそうじゃないのに、格好がそうなだけ、それっぽいことを言うだけで、大概それは「それっぽい」から「それ」になってしまうんだと思いました。
そして、まぁまさか従った側もヘロルトが偽者なんてことは知らなかったわけですが、ある意味、周りの人がヘロルトを「それ」にしたみたいなとこもありますよね。戦争中で、しかも自国側は敗戦しそうという極限状態も手伝って。
途中、話についていけなくなったところがあるんですが、その原因として、私の読解力不足ではない限り、第二次世界大戦当時のドイツやナチスについての情報が、私にあまりなかったことが挙げられるかなと思います。
話の内容だけでもめちゃくちゃ複雑なところあるのに、そこに次から次へと出てく新しい人物たちが一体誰なのかわからない。話しについていけない。
話の内容的にもちろんハッピーエンドではないし、外国のドイツの話、今では至るところで非難される、ナチスの話という感じなので、私は面白いと感じましたが「みんな、これ面白いから観てみて!」と言える内容ではないです。
こちらも東京滞在中に、アップリンク渋谷というところで観ました。
いやね、本当は正月にジャンプのコンサートで東京に行ったときに、ついでに観たかったんです。
この映画は住んでいるところの近くではやっていなかったし、他にも韓国映画「ときめきプリンセス婚活記」(タイトルからして女子感満載でなんか気恥ずかしい)
っていう、住んでいる地域ではやっていないかつ、観たかった映画があったんで、 コンサートの翌日にでも観に行こうかなって思ってたんです、東京ならどこかしらでやってるでしょと思って。
しかしね、妹という同行者がいまして。妹は映画とかには大して関心はないんです。それよりも彼女はジャニショのことで頭がいっぱいでした。
ということで、1月に東京に行った際には映画を観に行けなかったんですが、2月の終わりに今度は1人で東京に行く機会があり、そこでぽっかりと空いた時間「何すっかな~」とか思ってたところ、「どうせなら映画観るか!」ってことで調べた結果、見事「シシリアン・ゴースト・ストーリー」を発見したので、喜び勇んで観に行きました。
なんかね、強くて、でも、はかない恋のお話って感じでした。
この映画の軸になっている、13歳の少年・ジュゼッペが父親のせいでマフィアに誘拐されて、挙句の果てには殺され、酸でその体を溶かされてしまうというなんとも残忍な事件は、実際に1993年のシチリアで起きたそうです。実在したのはジュゼッペだけで、この映画に出てくるヒロイン・ルナとか友達ってのはこの映画のために作られたキャラクターだそうですが、ほんとにいたんじゃないかな?ってくらいにお話にぴったりとハマってたと思います。
幸せなシーンはほんとに最初の十数分の、ルナとジュゼッペが初々しいカップルとして仲良くしてるシーンくらいで、私的にも眼福だったんですが、ジュゼッペが誘拐されたが最後、そのあとの展開は明るくなりそうな希望を少しも感じないくらいに暗かったです。
ジュゼッペ自身は好青年なものの、父親がマフィアの端くれってことで、ルナのママは熱血教育ママってこともあり、2人の交際を良く思ってないんですね。良く思ってないどころじゃない。嫌悪してるレベル。
で、ジュゼッペの父親が警察のご厄介になってしまったときに、自分の罪を少しでも軽くするためにだったかな?マフィアの内情的なことを警察にしゃべっちゃうんですね。それはマフィア側にしてみれば当然、警察には知られたら困ることなので、これ以上しゃべられないように、ジュゼッペを誘拐することで、ジュゼッペパパの口をふさごうとするわけです。
ところがどっこい、ジュゼッペパパはそんなことおかまいなしとばかりにしゃべる口を閉じない。
なので誘拐した側のマフィアも引くに引けず、ジュゼッペの誘拐を続けるしかないんですね。
ルナにしてみれば、ジュゼッペが誘拐されたのが、ジュゼッペの乗馬を観に行った際にちょっとジュゼッペから目を離した隙だったし、次の日からずっとジュゼッペは学校に来ないし、ルナはジュゼッペのことが好きだしで、めちゃくちゃ心配なわけですよ。それはそうですよ。
でも、ルナママはもともと、マフィアの息子・ジュゼッペと仲良くしてる自分の娘を心配してたし、マフィアを毛嫌いしていることもあって、ジュゼッペを心配してるルナにまともに取り合わないし、町の人もジュゼッペが誘拐されたことには気づいてる・知ってるものの、マフィアに関わりたくない、ジュゼッペを助けるようなことをしたら、次は自分が何かされるかもしれないという不安・恐怖から、特にルナに手を貸すようなこともなく、事件に関わろうとしない。
そんな中でもルナはなんとか、ジュゼッペを助け出そうとして1人でも奔走するんですが、またこの姿が強くて応援したくもなるし、でもその背中の小ささから、おそらくできることは限られている、もしかしたらもう2人は2度と会えないかもしれないことも感じさせるので、痛々しいというか悲痛なんですよね。
ルナは時に大人に反抗しながら、自分の身を削りながらでも、ジュゼッペを助け出そうとするんですが、ルナの理想が描かれているのか、現実と夢の中?が入り混じるシーンがあり、ところどころ戸惑いました。
その最たる例が、ジュゼッペとルナが再会できたシーンで、ルナがジュゼッペを助けだし、マフィアの追手からも逃れ、「ずっと一緒にいようね」的なシーンなんですが(まさにポスターに使われているシーンです)、実はそれはルナの夢?で、結局ルナとジュゼッペは、ジュゼッペが誘拐されてから1度も再会できずにジュゼッペは殺され、その体は酸で溶かされ、池だか湖だかに捨てられるという、悲しすぎる最後で幕を閉じました。
もう悲しい・・・。こんなこと、いくら好きな人のためだとしても、13歳にはできませんよ、普通。実際存在してたのはジュゼッペだけなんで、実際にこんな悲恋はなかった(と思う)わけですが。
この映画は公式サイトとはポスターとかで「寓話的な」とか「幻想的な」って文句が使われてるんですが、まさにそんな感じだったと思います。
決してハッピーエンドではないし、実際に子どもに見せるには難しすぎる内容だと思うけど、おとぎ話的な雰囲気があったと思います。
この映画の結末を知ってしまった今となっては、結末が悲しすぎる&観るのに体力を使うので、もう1回観たいけど観たくないという矛盾した感じです。
何も考えずに観られた映画でした、いい意味で。
どうやらこの映画のテーマというか舞台というかの埼玉県でこの映画が大ヒットしているようですが、なんかわかる。私は埼玉県出身でもなければ、埼玉県に住んだこともないし、ゆかりもないけれど、同じ地方民?としてなんかこの映画がヒットするのわかる。
私は山口県出身で山口県のことが好きですけれども、純粋に好きって気持ちと同時に「貶し愛」の気持ちもあると思います。
山口県はね、広島県と福岡県という大都会に挟まれた田舎で、注目を浴びるのは幕末についてか、歴代総理大臣の多さぐらいなんですよ、あとはこれと言って目立つことはない。
いいとこだけどね、目立つことはこれと言ってない。
この映画を観た限りですが、埼玉県も同じよう扱いなんでしょうね、きっと。すぐそばには首都・東京があり、じゃあ第二の都市として栄えるかといったらすでにそのポジションには横浜擁する神奈川県がある。てことで、千葉県、茨城県としのぎをけずる的な構図なんでしょうね。
で、埼玉県民も、埼玉は何もないとか馬鹿にされる存在だということを自覚しているというか、自らそう言う節がある。でもきっとそれは、なんだかんだ埼玉県が好きだという気持ちが根底にあるからこそ言えることだと思う。なんだろう、表現が難しい。きっと「翔んで山口」なんて、この映画の山口県バージョンがあったら、山口県で大ヒットするでしょうね、そういうことです(?)
最初、二階堂ふみ氏演じる百美(注:男の子)が、GACKT氏演じる麗(注:男の子)のことを好きになるけど、実は麗が、迫害される対象の隠れ埼玉県人(県民ではない、県人。もはや一つの人種のような扱い。)だったと知って、一時は嫌いになろうとするけど、どうしても嫌いになりきれず、最終的には東京都知事の息子で、本来なら一番に埼玉県人を迫害する立場のはずの百美が、埼玉県に肩入れして、日本埼玉化計画、挙げ句の果てには世界埼玉化計画をぶち立てるというオチ。
てか、この日本埼玉化計画の中で知ったけど、あなたとコンビニ、ファミリーマートは、埼玉発祥(言い方がわからない)らしいですよ……。みんな大好き、お世話になってるファミリーマートが実は埼玉生まれなら、日本国民は埼玉をそんなに馬鹿にしてはいかんだろ……。
百美と麗は男の子同士なので、ここでの恋愛模様はBLになるわけですが、そんなのが全く気にならない。きっと今のご時世、BLというテーマだけで一本映画撮れちゃうかもしれないけど、徹底的に埼玉県及び埼玉県人を迫害する東京都及び東京都民vsなんとか埼玉県の地位を上げようと奮闘する埼玉県及び埼玉県人ᴠs千葉県、茨城県という内容が濃すぎて、BLなんぞ全く気にならない。むしろ、男女同士のいわゆる普通の恋愛では、このストーリーに飲み込まれてしまったかもしれない。
また、話の展開の仕方も良かった。この話が映画の冒頭から急に始まるわけじゃなくて、麻生久美子氏、島崎遥香氏、ブラザー・トム氏演じる、埼玉県に住む家族がまず出てくる。で、娘(島崎遥香氏)が結婚して、晴れて憧れの東京都民になるんですよ。その結納のためにわざわざ埼玉にある家から、家族みんなで東京にある結納会場に行くんですけど、その道中、車の中でラジオ聞いてたら、ラジオドラマ的な感じで、東京都vs埼玉県人の攻防が語られるんですよ。その、これはフィクションなのかノンフィクションなのか曖昧になる感じも良かった。
ブラザー・トムパパは、埼玉県民なので、このラジオドラマに号泣。埼玉への愛を車の中で、爆発させる。島崎遥香娘はさっさと結婚して埼玉を出ていきたいので、このドラマの面白さがわからないし、パパがなぜそんなに埼玉への愛を爆発させているのかはもっとわからない。麻生久美子ママは、千葉県出身だったかな?結婚以来、ずっと埼玉に住んでいるのでそれなりに愛着はあるけれど、それよりはやっぱり地元の方が好き。パパがいらんことを言うせいで、道中、わざわざ車を降りてまで、埼玉vs千葉の代理戦争を繰り広げるくらいまでには、地元の方が大事。
話のオチ的には、実は結婚相手の彼氏(成田凌氏)も、結納会場に向かう車の中で同じラジオドラマを聞いてて、埼玉への愛を爆発させて号泣した後、結婚後の新居は三茶か中目とか言ってた、島崎遥香氏の希望を打ち砕く「埼玉に家を建てよう」宣言。島崎遥香氏、気絶みたいな。これからの結婚生活を強く生きてくれ。
話の途中で、麗が、埼玉県人同士の結束力を高めるために、埼玉県人が、他県人からどんなことを言われているのかを聞かせるんですけど、それがまぁひどい。
「ださいたま」これは私も聞いたことがあります。埼玉県出身の有名人が自虐的に言ってたのを聞いたことがある。
とても全部は覚えてないけど、覚えてるのだけでも「胡散くさいたま」「うるさいたま」「きなくさいたま」「どんくさいたま」……ひどい。誰がこんなことを(山口県人として他人事とは思えない)。
むしろこんな埼玉のことをディスれるなら、その人は一周回って埼玉のことが好きに決まっている。
この悪口によって埼玉県人は逆に一致団結するんで、なんか結果オーライみたいになるんですけどね。埼玉県人の皆さん、強く生きてください(しつこいが、山口県民として他人事ではない)。
面白かったけど、絶望。はかりしれぬ絶望。最後の最後でチャンチャン♪と終わりそうな予感がしたのもつかの間、奈落の底に突き落とされるような絶望。
なんか「search」に似てるかも。
「THE GUILTY」は、日本でいう110番(映画の舞台はデンマーク)の電話を受けた警察官が、その110番してきた相手が言う状況連絡を頼りに、誘拐事件解決を目指すって話なんですけど、「search」は、韓国系アメリカ人?のパパが、突如連絡の取れなくなった娘を、娘の使っていたSNSなどのインターネット上の手がかりを頼りに探していくって話で、すべてのシーンがパソコンの画面上で行われていました。つまり私たち観客はパソコンの中にいて、パパがパソコンで何を調べてるかとかどんな様子かとかがわかるんですね、これはめちゃめちゃ面白かった。しかも、「search」は途中、事件解決が絶望的になりながらも、最終的には娘ちゃんは助かって結局ハッピーエンドみたいな感じでしたが、ギルティは真逆の結末でした。面白かったけど、観終わったあと、しばらくこっちまでダメージくらった。それくらい衝撃のあるラストでした。
主人公の警官・アスガ―が解決するために奔走する、誘拐事件の被害者・イーベンは、アスガ―に話した電話の内容からするに、2人の子持ちのママで、アスガ―が話を聞き進めていくうちに連れて、イーベンを誘拐したのは元夫のミケルであることがわかりました。
ここからちょっと細かいところは忘れちゃったんですけど、アスガ―がなんやかんやして、イーベンの自宅とか自宅の電話番号などを突き止め、自宅に取り残されていたイーベンとミケルの間の子どもの1人であるまだ幼い女の子、マチルダと連絡が取れます。
アスガ―がマチルダと話して分かったことには、イーベンとミケルは離婚したものの、過去に暴力での前科があるミケルは子どもの親権を勝ち取ることができず、2人の子ども(姉マチルダ2~3歳?、弟オリバーは赤ちゃん)の親権はママであるイーベンが持ってます。
で、マチルダが言うには、ミケルは子どもたちと離れて暮らしていたにも関わらず、ミケルがイーベン宅に押しかけてきて?、イーベンと口論になった後、オリバーの様子を見るなり、イーベンの髪をひっつかみ、車に乗せて外に連れ出したっていうんですね。しかもマチルダに「オリバーの部屋には絶対に入るな」と言い聞かせて。
もうマチルダは、パパが怖くて、パパがママをどうにかしちゃうんじゃないかなって怯えてるわけです。アスガ―はそんなマチルダを落ち着かせるために「大丈夫だよ、絶対にママを助けるからね」って言い聞かせて励まします。
イーベン宅にアスガ―が警官を向かわせるも、オリバーはすでにおなかを切り裂かれて亡くなっていました。
で、その後電話越しにイーベンと連絡を取り合い、マチルダからパパ・ミケルの連絡先を聞き出したアスガ―は直接ミケルに連絡を取るも、ミケルはアスガ―の警告を聞かずに誘拐を続行します。
アスガ―はなんとかこの事件を解決したいあまりに、イーベンに「なんとかすきをついて、ミケルを殴って逃げろ」とアドバイス?します。そしてイーベンもその決心をし、すきを狙う間にアスガ―はイーベンの気を紛らわせたり、落ち着かせたりするために身の上話を聞いたり話したりするんですね。
そこで・・・、
イーベン「オリバー(赤ちゃん)が泣き止まなかったの・・・。だから私がオリバーのおなかの中の蛇を退治してあげたの。(ニュアンス)」と言います。
アスガ―「・・・・・・?」
・・・どういうこと?オリバーを殺したのは話の流れからするに、元夫のミケルじゃなかったの??このイーベンの話から察するに、オリバーを殺したのはミケルじゃなくて、もしかしたらイーベン・・・?
そんな感じでアスガ―が事件を必死で整理しているときに、その「すき」が訪れてしまい、イーベンがミケルを殴って逃走します。
結局、事件の真相としては、過去に精神を患い、精神病院での入院歴もあるイーベンが「オリバーが泣き止まないのは、オリバーのおなかの中に蛇がいるせいだ、私が蛇を取り除いてあげなきゃ」という妄想?にかられ、オリバーのおなかを引き裂いて殺してしまいます。ミケルはそんなイーベンに子どもたちを託すことが心配だったものの、自分には過去に暴力事件の前科があるから親権を勝ち取ることができず、様子を気に掛けることしかできなかったんですね。
そして、ついにイーベンの妄想からオリバーが殺されてしまい、それを目にしたミケルは、イーベンを何としてでも子どもから引き離し、イーベンをもう一度精神病院に入れなければということでイーベンを無理やり車に乗せ、過去に入院していた精神病院に連れていきます。しかしイーベンは自分が精神を病んでいることも、ミケルがなぜ自分にこんなことをするのかがわからない。だから警察に「自分は誘拐されている、助けてほしい」と連絡するんですね。
で、いざミケルを殴って、その場から逃げ出してから、ようやく自分のしたことを自覚し始めて「・・・私?私がオリバーを殺してしまったの??」って我に返り始めるという。
もうね、アスガ―の後悔がハンパない。ミケルが悪者という方向でしか考えていなかったからこそ、実はミケルは正義のヒーロー的なポジションで、イーベンこそがやらかしてしまった人みたいな。
実はアスガ―は110番のオペレーターみたいな仕事が本職ではなくて?、もともとは刑事的な「ザ・警察官」だったみたいなんですけど、なんかアスガ―が無許可で発砲してしまって?相棒とともに、刑事職をはずされてるみたいなんですよね。で、もう少ししたら刑事職に戻れるみたいで、実際、この事件も最初はやっつけ半分みたいな態度で取り組んでたんですけど、この事件がこういう結末になってしまったんで、もうやばいですよね、このまま刑事職に戻れねえよみたいな予感させて終わる。
私的には、すごい面白かったけど、すごい絶望でおわりました。
「シシリアン・ゴースト・ストーリー」と同じく、もう1回観たいかと言われたら言葉に詰まると思う。もう1回観るには、結末を知ってるだけに、ものすごい体力がいると思う。
マジでよかった。この作品が今年のアカデミー作品賞を取ったってんで「なんとなく気になる映画」だったのが「よし、観に行こう!」ってことになったんですけど、まじで作品賞の肩書きにつられて行ってよかった。
時は1962年のアメリカで、まだまだ黒人への差別が色濃く残る時代。
主人公のトニーは腕っ節の強さが買われて、ナイトクラブで用心棒として働いて、奥さんと二人の子どもと暮らしています。
一方、助演の立ち位置だけどもはやダブル主演のもう一人と言っても過言ではない、ドン。彼はこの時代において差別される対象の黒人ですが、その類いまれなるピアノの才能でもって、とりあえずアメリカ北部の方(NY)では差別されないというかなんとか普通に暮らしてます。てか、カーネギー・ホールの上にある高級アパートで暮らしちゃってる。お手伝いさんというか、執事的な人まで抱えちゃってるというなかなかいい暮らしぶり。
そこでドンが、まだまだ差別が色濃く残る南部への8週間の演奏ツアーを計画するんですよ。行きたいって言っても、南部はまだまだ黒人に対する差別がひどいから、用心棒を連れていきたいってことで、ちょうどその時、務めてるナイトクラブが改装中で職のないトニーがその役に止まります。
トニーは最初は、用心棒とは名ばかりの何でも屋的な仕事を嫌がるんですけど、今は仕事もないし、なかなかいい給料だってことで、最終的には運転手兼用心棒としてツアーに同行することになります。
ちなみに映画のタイトルにもなっている「グリーンブック」とは、1936~1966年の間に毎年発行された、黒人が利用可能な施設などをまとめた旅行ガイドブックで、人種差別法(ジム・クロウ法)の適用が群や州によって異なる南部で、特に重宝されたそうです。(映画「グリーンブック」HPより)
ドンとトニーはこのグリーンブックをもって、アメリカ南部へ演奏ツアーに行きます。ドンは黒人、トニーは白人ということで、ドンは黒人OKなホテルにしか泊まれないので、2人が同じホテルに泊まれないことも多かったです。
トニーは、ドンとの面接のときは、自分は黒人に対して偏見はない的な素振りをするんですけど、ホントは黒人に対して偏見の目を持ってて、例えば家に水道管の修理的な仕事で来た黒人に、奥さんのドロレスがお疲れ様的な意味で出したお茶のコップを、彼らが帰ったあとに「黒人の使ったものは使えねぇ」的な感じで捨てちゃうくらいには、偏見の目を持ってます。
でもドンとの旅が進むにつれて、それまで「黒人」としてみてたドンを、「ドン」として見始めるんですよ。しかも、ドンのピアノの演奏に惚れちゃう。天才つって。
例えば、演奏会場側が、ドンを黒人として差別して、ドンが契約書にも明記してたくらい大事にしてた、ピアノのメーカーを勝手に変えたんですよ。ドンは、ピアノはスタインウェイってこだわりがあるみたいなんですけど、ある会場は「黒人はボロピアノでも弾く」つって、ゴミが中に入ってるようなはピアノを用意して弾けって言うんです。
きっとドンと仲良くなるまでのトニーならなんとも思わなかったでしょうけど、これが許せなくて、思わず会場側の人間を殴っちゃう。トニーは何か気に入らないことがあるとすぐに暴力に訴えがちで、殴っちゃうのは良くないと思うけど、私はドンの知らないところで、トニーがドンのために怒ってくれたのがなんか嬉しかったです。
こういう感じの差別をドンはこの演奏ツアー中に何度も受けます。
私が1番ひどいなと思ったのが2つあって、まずはトイレでの差別。
ドンの演奏技術を買って招待した側の家の主人(白人)が、ドンの演奏には聞き入ったくせに、ドンが休憩中にトイレに行こうとすると「君のトイレはあっちだ」って言って、庭の掘っ立て小屋みたいなところで用を足せっていうんですよ。ドンはそういう仕打ちには慣れているものの、やっぱり嫌なものは嫌だから「それはいやだ」っていうんですよ。いやって言われても「見た目が悪いだけで、ちゃんと使えるから」っていって、頑として家のトイレは白人専用という姿勢を崩さない家の主人。そんなに言うならと「だったら、今泊っている宿のトイレに行きます。30分くらいかかりますけど?」ってドンが言うと「じゃあ、そうしてくれ」とかいうんですよ。30分もかかるトイレに行かせてまでも、家のトイレを使わせたくないのかよ!ってびっくり&怒りを感じました。
なんかこれ、一昨年観た映画「ドリーム」にも似たようなシーンがあって、その時はそういう、人種によるトイレの差別を知ったのが初めてだったんですが、その時と同じような怒りを感じました。
「ドリーム」では、いつだったかのNASAで計算手として働いている黒人女性たちが主人公で、すごく計算が得意で、当時のNASAの仕事に欠かせない 人たちなのに「黒人」というだけで、同じポットのコーヒーも飲ませてもらえず、同じトイレも使わせてもらえないんですよ。で、ちょっとよく覚えてないけど、めちゃめちゃ切羽詰まった状況で彼女たちの力が必要なのに、彼女たちは白人のトイレに行けないために、わざわざその仕事場から離れた場所にあるトイレに行くために、無駄な時間を費やさなければならないという。最終的には、その理不尽さを彼女たちが白人の上司に訴えて、その人の心に届き、白人の上司が「白人専用」とか書いてあるトイレの札をぶっ壊してくれるんですけどね、とりあえずトイレ問題に関しては。
でも、「グリーンブック」では、トイレ問題は解決せず、ドンはマジでトイレのためだけに泊っている宿に戻らざるを得なかったので、あの白人まじかよって思いました。
2つ目にひどいなと思った差別が、最後の演奏会場でのレストランの差別。
この演奏会場がこの演奏ツアーの最後で、クリスマス公演ってことで、招いた側もめちゃめちゃ気合入れてるんですよね。
でも案の定、黒人のドンの控室は物置部屋同然の部屋。招いといて物置部屋。
まあ、ドンはこんな仕打ちには慣れっこなので、何も言わずに着替えをそこでします。
そのあと、演奏会場の中にあるレストランで 、トニーや一緒にツアーを回っているバンドメンバー2人(2人とも白人)と、演奏の前に食事をとろうとするわけです。
そこで、レストラン側が「黒人はこのレストランには入れないというしきたりがある」とか言って、ドンの入店を断るんですよ。嘘だろ、招いといて食事はとらせないのかよ。
そこにトニーがやってきて「今回だけ例外にしろ」とか「今日演奏する人間だぞ、食事はだれにとっても必要じゃないか」とか言って、レストラン側を説得しようとするんですけど、レストラン側は「しきたり」の一点張りで、「ならば、食事は控室にご用意しましょう」とかいうんです。でも、ドンは「物置部屋では食事はとらない」って言って、最終的には「ここで食事をとれないなら、今夜の演奏は降りる」って言いだします。
レストランを含めた会場側は、ドンの演奏をメインにして客を呼んでるから、 それは困るわけです。トニーに何とかドンを説得しろって言って、最終的には金を払ってトニーを買収しようとする。でも、もうドンをはじめとする黒人に対しての偏見を持っていないトニーは、その行為がすごく許せなくて、思わず手を出してしまいそうになる。そこでドンがその行為をやめさせて「君が言うなら、ここで演奏しよう」っていうんですけど、トニーはそんな失礼なことをした会場での演奏をドンに強いることはできなくて「こんなとこ出ようぜ」って言って、ほんとにその夜の演奏をドタキャンします。
私は、さっきのトイレの話もそうだけど、招いといて、いわばメインの客人で一番もてなさなきゃいけない人間に対してその仕打ちかよ!ってめちゃくちゃ思いました。だって、白人に対しては100%そんなことしないでしょうよ。仕事のドタキャンは良くないでしょうけど、そうい行動に出ざるを得ないか気持ちだったのかな。
私はアメリカをはじめとする、黒人差別や人種問題について詳しいなんてとても言えないけど、知らないなりに本当に「人種が違うことの、肌の色が違うことの、何がそんなに問題なんだろう?」って思うんですよね。
そりゃ、自分と違う顔のつくりや肌の色をしてる人間は物珍しいでしょうよ。それは私にもわかる。私だって、バイト先や街中で外国人を見かけたら、なんとなくじっと見ちゃうし。どこの国の人なのかなとか思うし。
でも、それで終われないんですかね。「自分と違う人がいるな~」ってだけで。
アジア人全体や私たち日本人も、人種的に言えばほぼほぼ黄色人種で、いわゆる「イエロー」じゃないですか。モンキーとか差別されることもまれにあるし。
で、それと同じように、白人(ホワイト)がいて、黒人(ブラック)がいる。それだけで話は終われないんですかね。
そりゃ、歴史的に黒人は長い間奴隷として使われる立場だったってのが、尾を引いてこの話になるんでしょうけどさ。一歩違えば、ホワイトがその立場だったかもしれないし、私たちイエローがその立場だったかもしれないと思うんです。使う立場だったか使われる立場だったかは紙一重だったろうに、その紙一重の差でそんなに威張れるもんかねと。まあ、私が思うよりもずっと深い考えや根深い問題があるのかもしれないけど、もっとどうにかならなかったのかな。私が差別される側の人間じゃないから、こんなことを思うだけなのかな、きれいごとなのかな。きっとそういう風に考える人はいると思うし、いると思いたいんですけど。
この、私が特にひどいと思った差別のほかにも、ドンが演奏ツアー先のバーで飲んでただけで、白人にフルボッコにされそうになったり、どこの州かは忘れたけど、夜に車にのって移動してただけで「黒人は夜間の移動は制限されている」とかいって、牢屋にぶち込まれたりします。
面白いくらいに、差別差別差別の嵐。
また切ないのが、そういう仕打ちに慣れちゃってるドンが、その仕打ちに対して特に反抗しないんですよね。
一緒にツアーを回ってたバンドメンバーが言うには、ドンが、差別されるとわかっていながらなぜこのアメリカ南部演奏ツアーを言い出したかというと、ドンのように才能があっても差別される黒人という状況を、差別されない安全な環境にいるだけじゃなく、自ら勇気をもって行動で示していくことで、この状況をどうにかしたい的なことを言ってました。
このお話は実話に基づいていて、演奏ツアーを終えても、トニーとドンは生涯の友情で結ばれたそうです。よかった、演奏ツアーが終わったとたんに疎遠になるような2人じゃなくてよかった。
この記事のタイトルでもある、「幸せなため息」をまさにつくことができました。
こういう映画に出会うために、レンタルまで待てば数百円で済むところを、わざわざ金を払って映画館に映画を観に行ってるんだ、私は。しかも、この作品についてはめちゃくちゃざっくりしたあらすじしか知らない状況で観たから、大して期待していなかった分、そのギャップもあって、すごくよかった。やっぱり、アカデミー作品賞を取るだけある。伊達じゃないな、アカデミー賞(誰)。
「クリント・イーストウッド氏って、映画監督だけじゃなくて、俳優でもあったんだ~」っていうあほみたいな感想がまず来ます。私、この映画の予告を観て初めて、クリント・イーストウッドは俳優としてのキャリアも持っているということを知りました。(十分にすごいことだけど)映画監督だけかと思ってた。しかも、俳優をやれているくらいだから当然だろうが、演技がシンプルにうまいと思う。途中、「クリント・イーストウッド」ってことを忘れて、普通に俳優として観てました。
映画の内容としては、花を育てる花農家?としての仕事に没頭しすぎた余りに、娘の結婚式もすっぽかすくらいに家庭を顧みてこなかったおじいちゃん、アールが主人公です。借金のかたとして何よりも大事だったはずの花農園を差し押さえられ、ならばと今さらながらに家庭を顧みる、孫娘の結婚式に関わろうとするとそれも時すでに遅しで受け入れてはもらえない。そこで「町から町に荷物を運ぶだけで儲かる仕事がある」と教えられ、金を稼いで家族を見返したい、花農園ができなくなって時間はあるというアールは、その仕事を興味本位で始めるんですね。
ま、この展開はテンプレ中のテンプレの展開で、その荷物はお約束の違法薬物なんですけどね。そんなおいしい仕事あるか、「町から町に荷物を運ぶだけで儲かる仕事」なんて。怪しいに決まってるじゃないか、目を覚ませよアール!!
アールは最初の何回かは、自分が何の荷物を運んでいるかも知らなかったんですが、ある時ふと興味本位で荷物の中身をみてみたところ、違法薬物を自分が運んでいるということに気づきます。もちろん悪いことをしているという認識があるものの、金は稼げるし、その金を使って孫娘の結婚式の費用代を援助してやったり、花農園を買い戻したりというおいしい思いをしていたアールは、その仕事を辞めないんですね。
途中、アールがあまりにも組織の言いつけを守らないので、アールの運び屋のお仕事にお目付け役が付けられるんですが、なぜか持ち前の人柄なのか、そのお目付け役までも、仲間とまでは言わないがなんとなく仲良くなっちゃう。あれ、アールって根はいい人??
もちろん違法薬物がらみの組織を警察がほっとくはずはなく、警察は秘密裏にアールおよび組織を調べてるんですね。アールは組織の思惑通りに、まさかおじいちゃんが運び屋をしているとは思われないためか、1回の仕事でえげつない量を運ぶんですね。もはや組織のエースですよ。
最終的にはアールは逮捕されますが、それまでに得た金もろもろで、なんやかんや家族との仲は修復されつつあるので、アールが罪を認めて服役することになっても、家族は「面会に行くからね」とか「花農園は私に任せて」とか言っちゃう。
全然そんなことは期待していなかったんですが、おじいちゃんが違法薬物の運び屋をやるという内容の映画から、まさかの家族愛とか人間愛、人間とはなんなのかなどをなんとなく学んだというか考えさせられた、得たような気がします。
失礼かもしれないけれど、思いのほか良かったです。ザ・正直な感想です。我が妹も称賛してました。
まず、映画を観ようと思ったきっかけが、もともと北村匠海くんが好きってこともある(安直)んですけど、それよりも今回は、このコピーとポスターにやられましたわ。
「あなたのせいで、生きたくてしょうがない。」
もうこのコピーを知った時点で「観ようかな」が「よし観よう」に変わりました。
話の内容的には王道っちゃ王道の悲恋もので、ヒロインが不治の病で、それを主演の男の子がひょんなきっかけから支えるというか面倒見る形になり、支えていくうちにお互い好きになっちゃう、でもヒロインは不治の病だから、近いうちに別れが来ちゃう、せっかく思いが通じ合ってるのに……。男の子の方はたとえ限りがある恋だとしても、残された時間をふたりで幸せに過ごしたい、なんなら病気が治るという奇跡を信じたいけど、逆にヒロインは自分が彼を残して死んでしまったらきっと彼は悲しむ、だったら少しでも悲しみを和らげるために、せめて深い関係にはならないように、思いは伝えないでいこうと思っちゃうんですよね。
でも最終的にはお互いに思いが我慢できず、つかの間の恋人同士としての幸せを噛み締めた後に、ヒロインは旅立ってしまうというストーリー展開でした。
このお話の中のヒロイン・まみず(永野芽郁ちゃん)がかかってしまう不治の病が「発光病」といって、細胞異常によって死期が近づくにつれて、全身の皮膚が強く発光していくという病気でした。
私はこの「発光病」とか「皮膚が光る」という病気の特徴が、ストーリー展開的に重要なポイントなのかなと思ってましたが、そうでもなかった様にな気がします。発光病が重要なポイントとなったのは、紆余曲折を経てやっと2人の思いが通じ合ったのに、そこでまみずの死期がいよいよ近づいてきてしまって、まみずがまさに月夜の下で光り輝く中で2人が抱きしめあってキス、みたいな1番良いシーンだけだったように思います。他にもまみずが病気で苦しんでるシーンは多々ありましたが、別に発光病である必要はなかった気がします私が見落としてたただけかな?発光病がもっと鍵を握るシーンってもっとあったかな?
私はこの典型的っちゃ典型的な、お涙頂戴系のストーリー自体よりも、卓也とまみずの恋模様に単純にときめきました。久々にときめきを感じたと思う(あかん)。
1番やばかったのは2つあるんですけど(この時点で1番じゃない)、この物語の鍵である「卓也が、病院から出られないまみずの代わりに、やりたいことを代行する」んですけど、卓也がある程度まみずのお願いを聞いたってことで、まみずが卓也に「ご褒美、何がいい?」って聞くんですよ。
そしたら卓也が「……まみずはなにカップ?」って急に胸のサイズを聞き出すんですね。当然まみずはキレて「は?」みたいになるんですよ。キレられたあとに、代わりにした質問は忘れちゃったんですけど、最終的には卓也はまみずに「じゃあ誕生日は?靴のサイズは?」って聞くんですね。まみず的にはそれまでの質問よりは答えやすいからポロっと「……8月10日。24.5センチ」って答えるんですよ。
じ!つ!は!(熱量高い)、卓也はその時、まみずが病室で読んでたであろう雑誌をなんとなく見てて、かわいいサンダルが載ってるページをまみずが端を折ってチェックしてるのに気づいたんですね。そこでタイミング良く、まみずから「ご褒美、何がいい?」とか聞かれたから、誕生日と足のサイズを聞き出して、プレゼントしてあげようかなって思いついたみたいな。でも、いきなり誕生日とか足のサイズとか聞き出したら不審がられるかなと思って、ジャブ的に男子がしそうなデリカシーのない質問として、胸のサイズとかの質問を挟んだのかなって。
……カーーーーーーッ!!!!
誰がこんな甘酸っぱいことをせぇと!誰がこんな身悶えることをせぇと!!最高か!!!!
で、いざ、まみずにサンダルをあげるときはこれみよがしにサマンサタバサの紙袋に入ってるくせに「これ、さっき道で拾ったんだ」つって。
まみず「……うわぁぁぁぁ〜!なんでなんで!?」つって。そうなるわ、誰がこんなサプライズをせぇと、見てるこっちを身悶えさせろと。最高か、もっとやれ。
また、その後のまみずの返しもなかなか上級者。「……私、Dだよ」って。ここでいつぞやに聞かれたカップのサイズを返すというね。あのときの質問はただのセクハラじゃなくて、自分の誕生日と靴のサイズを聞き出すためだったんだってわかったときの、驚きとちょっぴりの感動とときめきったらない。最高。
早速1つめで熱く語り過ぎてしまったんですけど、それにも関わらず2つめはあまり詳しく覚えてないんですけど(おい)(おそらく)卓也の妄想の中で、卓也とまみずがデートしてるシーンですね。
前述したように、まみずは発光病で、しかももう1年前に「余命1年」って言われた1年をとうに過ぎてしまったので、まみず曰く「余命ゼロ」なので病院から出られないんですね。だから、ひょんなことでまみずと関わりを持つことになった卓也が、まみずが外の世界でやりたいことを代行してきて、その感想だったりおみやげだったりをまみずにもたらすという展開がこの映画の軸なわけです。
で、卓也はまみずがやりたいことの代行として、ぼっちで、キャラクターの耳つけて遊園地行ったり、どでかいパフェ食べたり(予告にも出てくる、ピンクだかオレンジだか微妙な色の耳つけてパフェ食べてる、あれです。桃源郷。)、ショッピングモールに行ったりするんですね。
で、そのたびにその時の感想や写真なんかを、病室にいるまみずに持ち帰ってあげるわけですね。
で、最終的にはまみずと卓也の思いが通じ合ったのもつかの間、まみずは亡くなってしまうんですけど、まみずはこれまた代行で卓也に買ってきてもらった最新のスマホの中に音声データを残していて「実はね、卓也くんが代行してきて私に話してくれたこと、ホントは全部、私は卓也くんとやったつもりになってたんだ(ニュアンス)」って残してたんです。
ここで卓也の妄想なのか、2人の理想なのかはちょっとよく覚えてないんですけど(おい)、卓也が(実際はぼっちで)行った遊園地のジェットコースターに隣合わせで乗ってる2人とかキャラクターの耳つけながらどでかいパフェ食べてる2人みたいな、これぞ幸せなデート!っていう映像が出てくるんですね。で、またこれまみずはその(妄想)デートの間中、卓也がプレゼントしてくれた靴をほぼ履いてる。それがポスターでも履いてるあの赤いかわいいサンダルです、サマンサタバサ大先生です。
もう私が幸せな2人を夢見すぎてたあまりに、私が見た幻想かと思った。ちょっと自分でも何言ってるかよくわからないけど、それぐらい多幸感に溢れていた。
最後にどうしても言及させてもらうなら、また、主題歌が良かった。
SEKAI NO OWARIの「蜜の月 for the film」って曲なんですけど、あの深瀬氏の優しい歌声とこの映画の世界観がマッチしていて、最高に合ってたと思う。
私的にドストライク過ぎて、主題歌が流れるエンドロール中、思わず頭でリズム取っちゃってて自分としては小さくやってたつもりだったけど、多分目障りだったのか、私の斜め後ろぐらいにいた中学生くらいかな?の女子2人組に多分、椅子蹴られました( ・・̥ ) それぐらい目障りだったんだね、ごめんね。以後気をつけるね( ・・̥ )
でも、それぐらい映画にマッチしてた曲。曲ってか曲調。改めてセカオワ最高。
・・・・・は~~!長かった!ここまで読んでくださったあなたに、まずお疲れ様です!ありがとうございます!!
本当はきりがいいので、3月31日に記事をアップしたかったのですが、お決まりの「締め切りぎりぎりに課題に取り掛かる」病を発病し、観たらすぐに書けばいいものを、1月に観た映画の感想を、3月後半になってから、焦って記憶から引っ張り出しながら書いたりとかしてたので、4月1日でのアップになってしまいました。3月31日にアップできなくなった瞬間、もうこの記事を書くのはやめてやろうかと思いました笑 36000字も書いたのに(もはや恐怖)。
私が気が向いて、映画を観たその日に感想を書いたものや、良すぎて記憶に残ってる映画は、総じて感想が長め&熱量が高め、映画を観てから日が経ちすぎ&あまり記憶に残っていないものは総じて感想が短め&熱量が低めになっていますが、今後この記事をシリーズ的に書くことにした場合は、頑張って映画の記憶がフレッシュなうちに感想をしたためたいと思います。・・・そしたら全作品で感想が長め&熱量高めになってとんでもないことになるかもしれないけど・・・。そうだよね、観るたびに書いてたら(自分の中の)締め切りに間に合わないなんてことないもんね・・・(涙)。
さ、今日は映画の日で鑑賞料金が安くなるし、学生の特権期間(春休み)だから、平日だけど、懲りずに映画観に行くぞ~~!有言実行できるのかな??(次弾を書く前から不安しかない)